キリスト教Q&A
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    • このページは、日本キリスト教会北海道中会に属する久野牧牧師(日本キリスト教会函館相生教会)の著書「キリスト教信仰Q&A」の中から、出版元である(株)一麦出版社の許可を得た上で、一部を抜粋して構成しております。
    • 著書に関するお問い合わせは一麦出版へお願いいたします。


 Q.神は、本当に存在しておられるのでしょうか。
 A.神が存在しておられるということは、人間の力によって証明したり否定したりできるものではありません。神は、人間の知恵による証明をはるかに超えたお方だからです。
 神はご自分が定められた方法においてのみ、その存在が知られ得るものとなります。(ヘブライ1:1、2)それは、人間との出会いという方法です。神はご自身と出会った者の中に、「神は生きておられる」との確信を生じさせるという形において、一人ひとりにとって真に実在するものとなってくださるのです。
 Q.わたしは、どうしたならば神を信じることができるのでしょうか。
  • A.神は出会いによって信じられるものになる、ということを前問の答で述べましたが、神は、わたしたち人間と出会おうとして、自ら人間の方に出向いてくださっています。それがみ子キリストのこの世への巡遺です。わたしたちの側に、神を求める熱心があるならば、神は必ずわたしたちに出会ってくださるはずです。(使徒17:27、28)。
  •  聖書の神は、イエス・キリストにおいてわたしたちのもとに来てくださったのですから、何よりも、キリストを知ることが大切です。
 
 Q.教会は、わたしたちの救いのために、どのような働きをするのですか。
  • A.神は、ご自身、父・子・聖霊の神として、交わりの性格をもっておられるお方ですから、救われた者たちをも、交わりを形成することへと招いておられます。教会は、救われた者たちの交わりとして、罪の赦しの恵みが分かち合われるところです。信仰者はこの交わりの中でこそ、真に生かされ、養いを受けます(Ⅰヨハネ1:3)。
  •  さらに神は、キリストにおいてなされた救いの業を、いまは、教会をとおしてなし続けておられます。つまり、人びとに罪の悔い改めを求め、キリストの贖いによって神の子として新しく生きる者となることを、教会の働きをとおして、まだ救いを知らない人びとに呼びかけておられるのです。「教会の外には救いはない」ということを聞いたことがあるでしょうが、これは教会が人間を救うということではありません。救いを与えてくださるのは、あくまでもキリストにおける神である、その神が救いの業をいま、集中的に行っておられるのは、教会をとおしてである、だから教会を抜きにして救いは考えられない、という意味です。
 
Q.教会はキリストのからだ である、とはどういう意味ですか。 
  • A.体はその人の存在を表すものですね。教会はキリストのいのちによっていかされているもの、キリストを指し示すものとして、キリストのからだ と言われます。キリストが人として生きられたこと、そして十字架において死に、よみがえられたこと、このキリストの生と死のできごとが教会の存在と働きにおいて表される、そういう意味では教会はキリストのからだ と言われるのです。(エフェソ1:23)。
  •  また、からだは多くの肢体(部分)から成っています。教会は、その肢とされた者たちが、それぞれの賜物に応じてキリストに仕えるとき、救いの真理をより力強く証しするものとなります。そこでは、教会のかしらである同じ主に仕えるという共通の認識へとへりくだりとが欠かせないことがらです。(Ⅰコリント12:12以下)
 
 Q.教会がキリストから委ねられている使命は何ですか。
  • A.宗教改革の時代から、教会が真実の教会であることの主なしるしとして、神の言葉が聖書に即して語られていることと、聖礼典がキリストの定めのとおりに正しく執行されていることの二つが指摘されてきました。説教と聖礼典による、福音宣教こそが教会にとって最も重要であるということです。それは今日においても同様です(マタイ28:19、20)。教会は建物があり、制度があれば教会となるのではありません。福音宣教によって、救いのできごとが確認され、また、救いのできごとが展開されていくとき、教会となるのです。わたしたちは、教会を静的に考えるのではなくて、つねに動的なものとしてとらえなければなりません。
 Q.なぜ多くの教派が存在しているのですか。
  • A.キリスト教会は、聖書理解、信仰告白、組織などの違いによって、教派に分かれています。これで良いというわけではありませんが、それぞれの教会(教派)が、真にキリストの教会であろうとしてきた歴史的必然として、これが生じました。
  •  わたしたちは、この事実に立って、キリストに忠実に従おうとしている他教会をも、キリストの教会として受け入れ合い、交わりをもち、よきものを分かち合うことが大切です。「聖なる公同の教会を信ず」との告白は、そのことを言い表しているのです。しかし、明らかに異端的であるグループに対しては、はっきりと「否」を表明しなければなりません。
 Q.他の人の祈りや、主の祈りには「アーメン」と言えても、なかなか自分の言葉で祈れないでいます。それは、祈りの必要なことが、本当にはわかっていないからでしょうか。
  • A.祈りは、魂の呼吸と言われます。つまり、肉体が呼吸作用を必要としているように、魂も祈りぬきでは真に生きてはいけない、ということですね。祈りによって、わたしたちは、神と交わり、神と対話し、神のみ手そのものを求めます。祈りは決して信仰の付随的なものではなくて、本質に属するものなのです。
  •  祈らない、あるいは、祈れないということは、確かに、祈りの重要さがわかっていない、ということによるのでしょう。しかし、あなたが祈りそのものを否定しておられるのではない、ということは、大いに望みがあります。
 Q.祈りが聞かれているのだ、という確信がもてないでいることも、祈ろうとしない原因のひとつかと思いますが。
  • A.なるほど、そのとおりかもしれません。しかしここで考えておきたいことは、「祈りが聞かれる」とは何か、ということです。わたしたちは、自分の願いどおりのことが起こったときに、祈りは聞かれたと考えます。そして、その逆の場合は、祈りは聞かれなかった、と受け止めます。
  •  しかし、祈りが聞かれるとは、わたしたちの願いどおりのことが起こることではなくて、わたしたちの祈っていることがらに関して、神のみこころがなされることではないでしょうか。わたしたちに、祈りという神との交わりの特別な手段を与えてくださった神が、最もよい形でわたしたちの祈りを聞いてくださらないはずがない、との確信が大切です。(ヨハネ14:13、14)。神に向かっての祈りは聞かれるのです。 
 Q.それでは、わたしは、どんなことから始めたらよいでしょうか。
  • A.愛についてどんなに語っても愛することにはならないように、祈りについていろいろ考え、語っても、それで終わっていては何にもなりません。とにかく、祈り始めることです。一日のある時を決めて、神に向かい、「神さま……」と語りかけ続けてみてください。きっとそこから何かが始まるはずです。
  •  ある人は、祈るときいつも、自分の前にひとつのいすを自分の方に向けておいたそうです。それは、そのいすに神が座っておられる、そして、わたしの祈りに耳を傾けていてくださる、という緊張と真剣さを覚えるためだということでした。教えられますね。
 
 Q.祈れない時には、主の祈りを祈るだけでもよいのでしょうか。
  • A.「キリスト教における最大の殉教者は、主の祈りである」と言った人がいます。つまりそれは、主の祈りは、いろんなときにくり返し祈られるけれども、その意味も、自分との関係も深く考えられないまま、ただ唱えられているだけ、ということを指摘しているのです。そのことに注意を払いながら、主イエスが教えられた祈りを、ていねいに思いをこめて祈ることは、さらにその祈りを自分の祈りとしてふくらませていくことにつながっていくことでしょう。(マタイ6:9~15)。
  •  また、多くのすぐれた祈りの書物もありますから、それを読むのもよいでしょうね。祈りは祈りによって教えられ、育てられるものです。

 Q.祈ることによって得られる祝福は、何でしょうか。
  • A.祈りをしないでいると、祈りそのものを失ってしまいます。しかし、逆に、祈りを怠ることがないときは、祈ることの喜びや祈りによる力を与えられて、信仰生活がいきいきとしたものになります。つまり、神を軸とした生が、力強く回転するのです。
  •  それは、二十世紀の神学者ニーバーによるといわれる「神よ、変えることのできないものを受け入れるいさぎよさ、変えることのできるものを変える勇気、そして、両者の違いを見分ける知恵を、わたしたちにお与えください」との祈りに裏打ちされた誠実な生き方が、わたしたちのものとされるということです。
  • このページは久野牧牧師の著書「キリスト教信仰Q&A」(一麦出版社)の一部を抜粋して構成したものです。