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空知(夕張)・道北地区婦人会修養会報告
 
  • 日時   2013年8月27日(火)午前10時
  • 場所   滝川教会
  • 主題   「教会は地域とどうかかわるか」
             -み言葉が響き合う地域となるために-
  • 講師   小野寺 泉先生 (富良野伝道所牧師)
  • 出席者 33名(婦人25名、壮年2名、講師・教職者6名)  
  • 礼拝献金  32,400円 (中連婦へ送金)
   ● 講演内容
「 教会は地域にどうかかわるか 
            ~み言葉の響き合う地域となるために~」

はじめに:本日のメニュー

 富良野伝道所の小野寺泉です。先週、月・火と伝道協議会が行われました。その折に、加藤牧師の質問に答えようと思って手を上げましたら、司会をしておられた久野牧牧師から「話が長くなるで、短く」とアドヴァイスをいただきました。釘を刺されたわけですね。50代でそういうアドヴァイスをいただくわけですから、さらに年を重ねたら「クドクドと話す薀蓄おじさん」になるのは必至であると、いささか暗澹たる思いになりましたが、この講演では出来るだけ、そうならないようにと願っています。
  そこで最初に、この講演でどんな作業をするのかを申し上げます。食べもので言えば、メニューの紹介です。まず教会における学びとはどういうことかを確認します。次に教会の制度の目的が礼拝形成にあることをお話します。そして神の言葉の説教とは何であるかを、カール・バルトの説教論を手掛かりにお話していきます。カール・バルトを取り上げるのは、キリスト教の歴史の中で福音の説教とは何かをもっとも鮮明に明らかにしてくれたからです。そこから空知婦人会の方々が提起してくださった「地域にどうかかわるか」という話が出てきます。最後は、新しい地区の運営にかかわる実際的な提案をします。議論の材料にしていただければ幸いです。

<Ⅰ>

  そこで本年2013年から「中会」の機構簡素化と地区の変更が実施されましたが、この機会に、「中会」(presbytery=長老会)、ないし長老制(Presbyterianism)とは何であるのかを学んだらよいと私は常々思っています。畑で言えば、土地の雑草を抜くとか土を掘り返すとか、土を耕す作業をする、ということです。そうしませんと、せっかく種を撒き育てても貧相な収穫しか得られないと思うからです。
  そこで今、中会について学ぶと申しましたが、教会における学びは一般の学びと違う点があります。一般の学びは、まず自分がいて、自分の知らないことを習得します。しかし教会における学びは、まず主イエス・キリストとの交わり生きる自分があるのです。そしてその交わりにおいて主イエスとその恵を知るのです。つまり主イエスが、御自身とその恵をすでに私どもに与えてくださっているので、それを改めて確かめ、その恵みの豊かさ力強さに感謝する、という性格があります。要するに、すでに戴いているものを改めて知り感謝するのです。
  そこで教会における学びは、いつでも神讃美と結びつくという性格があります。この点で、すでにカルヴァンは『ジュネーブ教会信仰問答』で「問六 では、神についての真の正しい知識とは何ですか。答え 神をあがめる目的で神を知るときであります」と申しました。日本語としては少し変わっていますが、「神をあがめる目的で神を知るときに、神についての正しい知識が得られる」といっています。教会における学びは礼拝という神との交わりに生きる時に行われるものであるという意味です。このことを逆に言えば、神礼拝と結びつかない学びはちょっとヘンだな、ということです。昔ドイツにG・ヘーゲルという哲学者がおりました。大哲学者です。この人、牧師の息子で神学部も卒業しているのに、礼拝サボりの常習犯なのです。ある時、召使いの人が訊いたら、哲学することがわたしの礼拝であるといって書斎で哲学をしていたそうです。これはヘンなことです。何がヘンかと言えば、ちゃんと礼拝していないことがヘンなのですが、より根本的には主イエス・キリストが差し出した恵みを理性という自分の物差しで計れると思う所がヘンなのです。これは、ちょうど子供が、親からせっかく立派な晴れ着を着せてもらったのに、子供の感覚で格好ワルイとか言ってブーたれるのに似ています。ともかく主イエス・キリストが与えた恵は主イエスに従って考えるときに明らかになります。だから主イエスに聞き従ってという点が肝腎なのです。実際、ローマの信徒の手紙は信仰の従順に始まり(1・5)信仰の従順(16・26)で終わっています。これはパウロがいかに主イエスに従って恵を考えたかということを示していると思います。こうした信仰の従順において知性と讃美、知性と敬虔、ロゴスとパトスは一つなのです。このことをカール・バルトは「追思考」(Nachdenken→Nach:み後に従ってdenken:考える)といいました。
  学生の時分、叔母が支援物資であるといって下宿先に食べ物を送ってくれたことがありました。宅配でダンボールが届くわけです。ダンボール箱ですから無愛想な箱でしかありません。しかし開けてみると、食べ物があるわシャツが入っているわという風で有り難いわけです。教会の学びもそういう面があるわけです。聖書は何故か黒装丁で愛想が良いとはいえません。しかしそういう聖書という形で主イエス・キリストとその恵みが私どもの手に届きます。そして私どもはそれを開けて、中のものを取り出し主イエスに聞きつつ恵を感謝するのです。そして実際に用いていきます。その場合、牧師や長老の役目は、その中身が何であるのかを教える働きをすることになります。だから教会における学びは、ある問題について①聖書はどういっているのか、次に牧師・長老たちの奉仕によって、②世々の教会はその問題についてどういっているのか、そして③現在の私どもはどう考えるかという手順があります。これが教会で学ぶということの道筋なのです。しばしば現場から考えねばならないと言われますが、聖書は浮世ばれした宗教書といったものではありません、それは受肉の神イエス・キリストを証しする書であって、この世の現実に誰よりも、また最も深くかかわっています。だから安心して聖書から出発してよいのです。
 ところである時、叔母から頂戴した支援物資の箱を、忙しさにかまけて開けないまま日がたってしました。もったいないことに、中の食べ物は見るも無残な姿になっておりました。叔母から大目玉を喰らったことは言うまでもありません。しかし幸いなことに、聖書は腐ることはありません。そこで私たちは折にふれて主イエスから戴いたものを確かめたいのです。教会の学びはそういう意味で、喜ばしい営みであるという性格があるわけです。

<Ⅱ-1>

 そこで前回の集まりでは中会とは何であるかについて、千葉牧師が1955年版の「教会員の生活」や1958年の日本基督教会信仰問答草案を用いて説明してくださいました。アンダーラインの部分を以下に二箇所引用します。 「中会は教会の地方的な行政監督区であり、長老主義教会では、教会行政上の中心的な権威の場所であります。・・・日本基督教会は個々の教会が孤立して存在するのではなく、個々の教会によって形成される中会がむしろ母体となっています。」(『教会員の生活』) 「17問 憲法規則は何のためにあるのですか、また、それはどんな立場をとっているのですか。 答え 憲法規則は、教会が見える教会として、主の委託を果たすために、いかなる政治機構をもつべきか、どのように運営されていくべきか、を明示するために制定されました。」 (『草案』) ご覧のように、これらの文章は、教会の目に見える面、地上の教会の姿を紹介しているわけです。私どもの教会は1951年に創立しましたので、大急ぎで目に見える組織を整える必要があったわけです。つまり「組織の完備した教会」になろうとしたのです。だからどうしても目に見えることに力が入いるわけです。そして今でもそういう傾向があります。
  また西田先生は1980年に連合長老会で『私の教会論』という講演されましたが、それがパンフレットになっています。その中で、教会という言葉の意味から説き起こし、長老制度について教えてくださっていますが、その際に地上の制度や組織もつ限界をも示してくださいました。「然し教会の歴史を見ます時、教会に霊的なものが失われても制度や組織は残りますのでそれがアクマ的な働きをして人を圧迫することもありました。」そういっておられるのです。しかしだからといって教会の制度を人間が作ったもののようにいうわけには行かない、と言っておられます。教会の制度は主イエスの御心に従うことが大事であるといってくださっています。
 お二人とも大事なことを言ってくれているわけですね。地上の目に見える教会には組織が必要である。しかしまた組織体としての教会は、霊的なものが失われたままでもそれ自体で動こうとする面がある。つまり非人間的な面が出てくるのです。だからその組織が主イエス・キリストの願っておられることに従って用いられるということが大変大事ということです。 そこで以上のことを一言で言えば、地上の「目に見える教会」と「目に見えない教会」がどのような関係になっているのか、ということになります。このことを弁えておくことが必要です。この点で日本キリスト教会の憲法一条が指針になります。
  「日本キリスト教会は、一つの聖なる公同の使徒的な教会に属し、長老制をとる一団の教会であり、個々の教会および伝道所からなる。」
 「一つ聖なる公同の使徒的な教会」とは「目に見えない教会」のことです。短く言えば、公同教会で、わたしたちのことです。それが「目に見える教会」として地上に具体化するために「長老制とる」といわれているのです。だから長老制は大会・中会・小会という三層の長老会議から成り立っていますが、それは目に見えない教会を地上の具体化し、目に見える教会にするための手立てである、そう思ってよいのです。
  もう一つ参考になるのは、カルヴァンの『キリスト教綱要』第四巻の教会についての部分です。教会論のタイトルは、「神がわれわれを、キリストとの交わりに招き、そこにとどめ於かれる外的手段、ないし 支えについて」です。カルヴァンは地上の目に見える教会を外的手段とか支えというのです。
 本文を見てみます。 「キリストが福音を信じる信仰によって、われわれのものとなりたまうという事情と、われわれがかれによってもたらされた救い、および永遠の浄福にあずるかるものとなる事情は、前巻において説明された。しかしながら、われわれの愚昧とわれわれの怠惰(その上さらに、わたしはわれわれの精神の虚妄をも付け加える)は、われわれのうちに信仰が生まれ、かつ成長し、次第に前進して目標に達するにためには、外部からの支えを必要とするので、神はわれわれの弱さに対する処置を講ずるために、これらの支えを付け加え給うた。福音の説教が効力を発揮するために神はこの宝を教会に託し給うた。神は牧師と教師を立て、それらの口を通じて御自身の民らを教え、かれらに権威を備え給うた。要するに、神は信仰の聖なる一致と、正しい秩序をとわれわれの間に養うために必要なものを、何一つ省略したまわなかったのである。」
 
「外的な支え」とか「外部からの支え」いう表現を大切にしたいと思います。「中会」という組織、あるいは憲法・規則イコール主イエス・キリストのみ体ではない、ということです。つまり私どもが教会の憲法・規則を守れば教会が出来上がるといった事情ではないのです。もしもそのよう考えると、制度信仰とかマニュアル信仰になってしまいます。場合によっては宗教カルトに似てくるのです。ともかく単に、地上の宗教団体が存続するだけとなります。実際に、例えば、かつての中世カトリック教会は単なる宗教団体にまで成り下がったわけですね。
 私どもは、すでに公同教会に生きています、イエス・キリストのみ体の枝々としてすでに生かされています。けれども私どもは罪人であり誤りやすいという弱さを抱えているので、その弱さを支えるものとして憲法・規則が主イエスを指差すガイドラインとしてあるのです。つまり憲法・規則は「キリストに服従するしくみ」(久野牧『教会生活の道案内』)です。だからこそ喜び勇んで従うのです。このように長老制度の目的は主イエスを明らかにすることにあって、制度自体を維持することが目的ではありません。実際、救いの完成のときには、ヨハネ黙示録が記しているように、長老制の教会が残るのではありません。礼拝が残る、主イエスとの交わりが残るのです。この点について、わたしたちは目覚めていなければなりません。例えば教会の様々な集会が成功するかどうかといったことよりも、主イエスが明らかになったどうか、そのことが大切ですね。

<Ⅱ-2>

 そこで長老制度の目的が公同教会を具体化するためあるならば、その公同教会とは何でしょうか。『ハイデルベルク信仰問答』は次のように言ってくれています。
  • 「問答54 「聖なる公同の教会」についてあなたは何を信じていますか。
  • 答え  神の御子が、全人類の中から、ご自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、ご自身の御霊と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれるということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。」
 主イエスがご自分の民を選抜し、聖霊と御言葉によって一つの群れを形作ってくださいます。だから第一に、公同教会は「動的な群れ」という特徴があります。主イエスがご自分の民を選抜し保つべく働いておられるからです。言い換えれば公同教会は本質的に伝道的なのです。第二に、この時、主イエスは聖霊と御言葉において働いておられます。主イエスは聖霊を注ぎ、御自分の民に様々な奉仕の賜物を与えておられます。しかしそれはいつでも聖霊と御言葉をとおして与えられるものです。だから様々な賜物の中で聖霊と御言葉が一番大切であるという秩序、順番があるのです。つまり様々な奉仕の賜物の中で御言葉を語る賜物が中心であるという秩序があるのです。この秩序を「聖霊の秩序」あるいは「御言葉の秩序」といいます。この点はⅠコリント12~14に詳しく展開されていますのでぜひお読みください。そこで第三に、この御言葉の秩序に従おうと努力して世々の教会が生み出してきたのが教会の制度であり、私どもの場合、長老制度です。教会の制度の起源は、人為的なものではなく、「聖霊の秩序」、「御言葉の秩序」にあるのです。だから「キリストに服従するしくみ」といわれるのです。こうして長老制度が公同教会を具体化するためにあるというのは、実際には御言葉を中心にした群れ、つまり礼拝形成のためにあるといって差し支えありません。逆に言えば、「中会」の様々な奉仕がイエス・キリストにふさわしく機能しているかどうかは、礼拝が力をもち、豊かにされ、御言葉がいっそう地域社会に宣べ伝えることにつながっていくかどうかによって、否応なく明らかになってしまうということです。

<Ⅲ-1>

 そこで礼拝が力をもつというのは、今ほど申しましたように礼拝の中心は聖霊と御言葉ですから、礼拝説教が力をもつということなのです。しかし今日、伝道がふるわないといわれ続けていますね。そしてそれには社会構造の変化とか様々な事情があるに違いありません。けれどもその最大の原因は、自分で首を絞めるようなことですが、正直に申し上げて、神の言葉の説教が出来ないからである、と私は思います。もちろん牧師、長老、教会員、それぞれが大変な努力をしておられるのです。けれども説教というのは、もともと人間の側の努力によるものではありません。説教とは主イエスご自身のお働きであり、教会の業です。主イエス・キリストが御自分の御霊と御言葉により、人々を集め、守り、保ってくださるわけです。ですから人間が努力したから説教が出来るのではなく、主イエスが御心のままに人間の言葉を御自分の言葉として用いてくださるときに、説教という「出来事」が起こるのです。
 最近、富岡幸一郎著『使徒的人間カール・バルト』が講談社文芸文庫として発行され、ノン・クリスチャンの人も入手しやすくなりました。広い意味での文書伝道ですね。そこにバルトの説教理解が紹介されています。ちょっと長いですが、二つの文章を引用します。

 
カール・バルトは、大学の神学部の課題と教会の説教の課題は同一であって、それは神の言葉である、イエス・キリストのことであるといいました。その意味で、説教者は神学者であり神学者は説教者なのです。これは今日においてもそうなのです。しかし当時、バルトの発言は学者と宗教家と同一視するような話で論争を巻き起こしました。実際、バルトは、恩師でもありベルリン大学の看板教授であったアドルフ・フォン・ハルナックと公開討論さえするわけです。ハルナックは歴史学者ですから、新約聖書を古代中東の歴史文書の一つと捉え、一般の歴史学と同じ方法で愛の人イエスを宣伝します。しかしバルトは、新約聖書を使徒たちのキリスト証言の書として見つめ、使徒とその教会と同じ立場に立って神の言葉を聞き、宣べ伝えたのです。
 神の言葉とは、神が語る言葉です。ですから、いかなる意味でも人間が語ることのできないものです。まして罪人である人間が神の言葉を語れるわけがないのです。ところが神は、人間に対して神の言葉を語れと命じ、また語るべきであるというのです。これが教会の状況であり人間の状況である、そのようにバルトはいうのです。そして教会がこの立場に立ち続けるとき、神が恵みによって、聖霊のお働きによって、人間の貧しい言葉を御自分の言葉として用い、み言葉を語り聞かせるということを起す、そういっているのです。つまり説教は、冒険であり、また恵みの出来事なのです。
 このことは、友人E・トゥルナイゼンと行った説教学講義でも繰り返されています。
 「本来、説教はできないということを深く見抜いていなければ、説教はできない。神の言葉は、いかなる人間の唇にものぼり得ないと知る者だけが、神の言葉を口にしうるであろう。・・・命について語るべくあえて死のうとする者のみが神の証人であることがゆるされる。『わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、・・・十字架につけられたキリストを宣べ伝える。』人間およびいっさいの人間的なるものの死を宣べ伝えること、これこそが説教の課題である。そのような説教の声が響くところ、神は言葉をもって答えられる。その言葉は復活といい、復活そのものである。そしてこの復活の言葉こそ、言葉の中の言葉である」(『神の言葉の説教学』)
 
神の言葉とはイエス・キリストのことです。この方は、ご自分の十字架の死において、私ども人間の世界と歴史を中断し、同時に、死からの復活において神のご支配という新しい世界をこの世の只中に開始しておられるのです。その点を、パウロは次にようにいうのです。「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方が死んだ以上、すべての人が死んだことになります。」(Ⅰコリント5:14)一人の方イエス・キリストが、すべての人間の代理人として神に裁かれて死んだということは、すべての人間が死んだということであって、その時点でこの世界と歴史は終末に達しているのです。つまり過去の人間・現在の人間・将来生まれてくるであろう人間に代わって、主イエスは十字架上で神に裁かれて死んでくださった。ということは、主イエスの死において人間の歴史的社会的現実は裁かれ終末に達しているということです。だからその十字架の死を見つめるときに世界の終末を見るということです。もちろん私どもの肉眼は、グローバルな市場経済の進展の中で経済格差が起こったり、またそれに対する反動として日本人のアイデンティティを確認したくてナショナリズムが盛んになってきたり、イスラム圏の中の原理主義者がそうした欧米的価値観に対抗しようとしてテロを引き起こしたり、そういう苛烈な現実を見るのです。けれども主の十字架の死を見るとき、そうした苛烈な世界も含めて、すでに神に裁かれ終末が起こっている、また同時に主イエス・キリストが死から復活することにおいて神のご支配がこの罪の世界の只中で開始している、そういう喜ばしい、終末論的な出来事を見させていただくのです。
 だから礼拝とは、もしも神の言葉が語れるということが起こるならば、そこはイエス・キリストによる世界の大変革が起こっている現場であるといってよいのです。死から命へ、滅びから救いへという変革にまさって大きな根本的な変革はありません。私ども人間が考え行う変革は、常に、目に見える世界の内側のこと、歴史内部のことでしかありません。それは、罪の結果、裁きとしての死があるという現実を知りません。しかし説教は、イエス・キリストの死からの復活において、神が私ども人間存在の根本状況を変革したということ、死からの復活を語るのです。

<Ⅲ-2>

 そして神の言葉の説教が起こるとき、主の言葉が響き合うということが起こってくるのです。今日は、先ほど司会の松倉さんにテサロニケの信徒への手紙一1章6~10節を読んでいただきました。原文で見ると、6節のところが区切りになっていて、話しの流れが切り替わっています。それまでの話は神の愛と選び(4節)が宣教という働きにおいて実現したということです(5節)、そしてこの6節からは御言葉を聞いたテサロニケの人々の話へと展開しています。
 その中で注目したいのは8節です。そこには「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響きわたった」とあります。マケドニア州とアカイア州は古代ローマ帝国行政区分であり、二つの地域です。アカイアはアテネを含む古典ギリシアでありギリシア中のギリシアです。マケドニは、アレクサンダー大王を出した地域とはいえ、ギリシアからみれば周辺地域であり、田舎です。だからローマ帝国は行政区分をするにあたり、マケドニアとアカイアを二つに分けたのです。しかしパウロは、「主の言葉がマケドニア州とアカイア州に響きわたった」と語って、人間の作った行政区域を越えた広がりを見つめているのです。このことが今日みなさんにお伝えしたいことなのです。つまり聖書でいう地域は、御言葉が響き渡るごとに現れ出でてくるものであって、その範囲は御言葉の響きわたるごとにその広がりを露にしていくものなのです。その具体的な姿が一つの地域教会です。すなわち目に見える面から言えば、マケドニア地方にはフィリピ、ベレア、テサロニケ、アカイア地方にはアテネ、コリント、ケンクレアイと各地の礼拝の群れがありますが、しかしそれは一つの地域教会になっている、ということです。
 これは今日でも同じです。新しい地区分けをし組織をいじったからといって自動的に一つの群れになるのではありません。もちろん様々な工夫は必要です。しかし説教が本来の力を回復し、御言葉が響きわたるとき、そこが御言葉に生かされる一つの地域教会として立ち現れるのです。
 そこで「響き渡る」とはどういうことでしょうか。これは、「エクセーケータイ[ギ]」という字で、「エコーする」という言葉が元になっています。こだまですよ。実際、この手紙を書いている時、パウロはアテネにいます。そうすると、テサロニケ教会の礼拝で主の言葉が語られ、その話がアテネにまで聞こえ、しかもアテネの礼拝と同じことをいっている。それだけでなくパウロたちと交わりのあったマケドニア州のフィリピの教会からもベレアの教会からもテサロニケ教会の話が聞こえてくる。主の言葉が語られるとき、まさにエコー反響が起こっているのです。そうやって主にある一つの地域教会が見えてくるのです。だからここ滝川から語られる主の言葉が「イエスは主なり」と言うと、北の稚内でも南の夕張でも、「然り、イエスは主である」そういう響き合いが起こる。その時、そこに信仰における地域が生まれるのです。その具体的なしるしとして、講壇交換ですとか、数年一度でもよいから道北空知夕張の諸教会が一同に会して讃美できればと願っています。そしてそのために同じ信仰告白に立つ必要があるのです。信仰告白の働きの一つは御言葉をキャッチするパラボナ・アンテナを作ることにあるからです。そこで前々回、『ハイデルベルク信仰問答』を全員で学ぶことを提案したわけです。
  ところで私たちは地域を通常、目に見える生活圏のことであると思っています。電気・ガズ・水道・道路などのインフラ、スーパー・マーケット、行政機関、学校、病院などによって支えられている生活圏です。そこに私ども暮らしがあります。その土地の生まれ、働き、愛し合い、年老い死んできます。だから土地はただの地面ではなくご先祖がいる場所であって、そうしたご先祖とのつながりといった大きなものに支えられて人々の暮らしが成り立っています。地域の祭りはそういうことの現れです。そういうものを「ムラ共同体」といったらいいと思います。
 しかし明治維新以降、近代市民社会という考え方が新しく入ってきました。これは、大雑把に申し上げて、自立した個人(Individual=分割できない者)が契約を結んで社会(Society)を構成し、自分たちが選んだ者たちに政治をやらせるというシステムです。西欧にもかつて「ムラ共同体」というものがありました。しかし13世紀のラテラノ公会議で年一回の告解が義務付けられ、人々は神のみ前に立つことによって、祖霊信仰を土台とした人間関係の絆から解かれていくことが始まったのです。そこに「個人」というものが生まれます。以上は、阿部謹也著『ヨーロッパを見る視角』(岩波文庫)p.104がタネ本です。ともかくそれから約600年かけて近代市民社会へと発展していくのです。それを図にすると以下のようになります。

<欧米>  <日本社会> 
ムラ共同体=地縁・血縁による結びつき ムラ共同体
キリスト教社会=信仰による結びつき  ↓←(聖霊による共同体形成の開始)  
↓ 
市民社会/政教分離=契約・憲法による結びつき  市民社会 

                                              
  ご覧のように日本社会では真ん中のキリスト教社会が抜けています。そのため市民社会といっても頭の中のお話になりやすいのです。書生論だかとかシンサヨクの考え方だとか言ったりします。そして実際には「ムラ共同体」が霊的な共同体として息づいており、市民社会も「ムラ共同体」の感覚で運営されますので、その内実は形骸化します。だからこそ教会という地域共同体が必要なのですし、それはキリストの死からの復活により聖霊の注ぎにおいてすでに開始されています。そこで、何よりも神の言葉の説教という恵みが重んじられ、それに対応する社会的な証しも賜物に応じてなされていくことによって市民社会も健やかになっていく。つまり市民社会も救いが必要なのです。だから礼拝という営みこそが、この世の対する最大の奉仕なのです。
  今年の夏、富良野市は例年になく観光客が多かったようです。内地の人たちはもとり、台湾人、韓国人、東南アジアの人、カナダ人なども街中でよく見かけました。人は、いわゆる「おいしいもの」があると分かると、喜んで距離を越えて移動するものだと改めて思いました。だから主の言葉が本当に「おしいしい」ものになっているのか、つまり福音が本当に喜ばしいメッセージ、復活の言葉となっているか、そのことが喫緊の課題なのです。一言で言えば、神の言葉の説教に生きる共同体になろう、ということです。そこにしか地域教会の再出発はないからです。

<Ⅳ> 

そこで最後に実践的な提案を幾つかします。私個人の勝手な想いですから、皆さんでバシバシ叩いて議論していただければ幸いです。
  • ①牧師会   毎月一回  
    • 読書会:テキスト「出来事のとしての説教」
    • 年一回 説教研修:「説教黙想・釈義・第二の黙想・説教・説教分析」をし、講壇交換をする。(加藤常昭著「説教分析」を学んだ上で行う)
  • ②研修会:2~3年の間、旧道北地区が実務担当(交わりの時間を必ず取る)
    • 長老・執事・伝道所委員の学び:教理と実務(書記・会計の実務、病者・高齢者見舞いや援助)
    • 礼拝音楽の学び
    • 子供伝道再建の学びと実施
  • ③修養会:2~3年の間、旧空知地区が実務担当(交わりの時間を必ず取る)
    • 伝道的性格(何をするにせよ、求道者をお誘いできるもの)
    • 数年、『ハイデルベルク信仰問答』を学ぶ。
  • ④事務局=牧師会+長老
    • 「中会」研修委員会・修養会委員会との連絡、案内
    • 「中会」会計へ活動費申請・受領、毎年4月3日に地区会費一人一口500円を献金。
  • ⑤数年に一度、道北空知夕張地区信徒大会を行う。
    • 目的:主の言葉が響き合っていることを体験する。
    • 会費:積み立て
※おまけ
  • K・バルト『教会教義学』読書会をやります。『創造論』からやります。この世の問題について聖書的に考えるための必読図書だからです。ご参加下さい。
  • 毎月第三木曜昼午前10時、夜午後7時30分
 
 2013年度伝道協議会
   
  • 日 時 2013年4月29日(月)11:00-15:00
  • 会 場 旭川教会
  • 主 題 「今後の地区のあり方」
  • 会 費 300円(昼食代、茶菓の一部として)
  • プログラム
    11:00-11:30 受 付
    11:30-12:00 開会礼拝:大倉 薫
    12:00-13:00 昼食・交わり
    13:00-13:30 発題:千葉 保「地区教会の交わり-中会性と教会性-」
    13:30-15:00 協議会 司会:加藤正勝