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 2016年度道南地区伝道協議会の報告

  • 主題 「伝道する教会の形成」-身近な人を教会へ-
  • 聖書 「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」テモテへの手紙二 4章2節
  • 講師 河野 美文(遠浅教会牧師)
  • 日時  2016年4月29日(水) 午前11時~午後3時30分
  • 会場 伊達歴史の杜 カルチャーセンター
  • 会費 1,000円
  • 参加教会 道南地区5教会、2伝道所 、他地区1教会(札幌琴似)から
  • 参加者 87名 (男32名、女55名)
  • プログラム
    11:00~12:20   司会:布川一郎長老 奏楽:竹川イソ姉
            讃美歌 502番
                祈り 聖書:使徒言行録20章28~35節 
            講演 「伝道する教会の形成」-身近な人を教会へ- 
                河野美文 遠浅教会 牧師 
    12:30~13:30  昼食・交わりの時  司会:西 玲子長老
    13:30~14:20  グループ別協議会 (8グループ)
           各グループの司会/書記 (ペアレンツ2名)
         
    14:30~15:20  グループ協議報告会 司会:菊池幸弘長老
15:20~15:30  閉会祈祷 久野 牧 函館相生教会 牧師
               讃美歌 234A 
           聖書 コリントの信徒への手紙一 1章18~25節
       牧師 河野 美文  
      道南地区伝道協議会 講演講師
          日本キリスト教会遠浅教会
 
  【講演の内容】  (PDFファイルです)

 2015年度道南地区長老、委員研修会の報告

  • 主題 「教会における訓練」~キリストの教会の正しい形成を目指して~
  • 講師 秦 利器(苫小牧教会牧師)
  • 日時 2015年4月29日(水)午前11時~午後3時30分
  • 会費 1,000円
  • 参加教会 道南地区5教会、2伝道所
  • 参加者 53名 (男23名、女30名)
  • プログラム
    11:00~12:30  主題講演、講師 秦 利器(苫小牧教会牧師)
    12:30~13:30  昼食・交わり
    13:30~15:20  全体協議会 司会 菊地幸弘(伊達教会長老)
              (各教会・伝道所の牧会的配慮の事例報告、講演に対する質疑応答)
    15:20~15:30  閉会祈り会 久野 牧(函館相生教会牧師)
 
 【講演の内容】  (PDFファイルです)

 2014年度道南地区長老、執事、委員研修会の報告
 苫小牧教会
テーマ「牧会的配慮とは何か」
- 長老、執事、委員の立場で考える -
  • 主題:「牧会的配慮とは何か」
  • 講師:久野 牧(函館相生教会牧師)
  • 日時 2014 年4 月29 日(火・祝日) 11:00~15:30
  • 会場:伊達教会
  • 会費:1,000 円
  • 参加教会・伝道所 道南地区5 教会、2 伝道所、他3 教会
  • 参加者 89 名(教師6 名、長老27 名、執事22 名、委員5 名、会員28 名、 その他1 名)
  • 席上献金 80,300 円 送金先(中会伝道局40,000 円、中会教職福祉金庫40,300 円)

 
  • ○11:00~12:30    主題講演 講師  久野 牧 (函館相生教会牧師)
  • ○12:30~13:30    昼食、交わり
  • ○13:30~15:20    全体協議会  司会  秦 利器(苫小牧教会牧師)
  •              (各教会、伝道所の現況報告、主題講演の質疑応答)
  • ○15:20~15:30    閉会祈り会  司会  河野美文(遠浅教会牧師)
 【講 演】
  まことの教会のしるし
1. 宗教改革時代に確認された「まことの教会のしるし」の第三項目に注目
① 純粋なみ言葉の説教(宣教)            (礼拝の場)
② 正しい聖礼典の執行                 (礼拝の場)
③ 教会的訓練(規律・戒規)が行われていること (礼拝の枠を超えた場)
 *その一例
『スコットランド信条』(1560)第18条  
 それゆえ神の真の教会の徴しは、神の言の真の宣教であるとわれらは告白し確信する。 預言者と使徒の書が宣ぶるごとく、神は神の言の中にみずからを啓示したもうのである。
  第二にキリスト・イエスの聖礼典の正しき執行である。それにより人は神の言と約束とに結合せられ、心の中にそれを銘記するのである。
  最後に教会的訓練の正しく行われ、神の言から規定せられ、それによって悪徳が抑制せられ、良き行いが養われるのである。
  これらの徴しがみられ、いかなる時にも、2、3人の僅かな人々によらず、多くの人々に守られている所に、疑いもなく真のキリストの教会があるのである。キリストはその約束により、それらの教会の中にいましたもう。
2.第三項目の教会的訓練が目指していること
③は、教会員が①と②に正しく関わることを目指している。つまり、み言葉にあからさまに反逆し ながら、悔い改めのない生活をしている者(教会員)が、教会によってその冒瀆性(不信仰性)を指摘されて、悔い改めを促される手段を講じられることである。悔い改めようとせず、自分が犯した罪から遠ざかろうとしない者に、「それでよい」とばかり言って、「それではいけない」と言えなかったら、その配慮は正しくない。「それではいけない」「悔い改めよ」ということをはっきり告げて、兄弟を主のもとに連れ戻す行為が訓練である。そのために下される悔い改めのための法的手段が「戒規」である。これによって、キリストの栄光が損なわれる(冒瀆される)ことを防ぐとともに、信仰者と教会の健全な営みが回復され、維持される。キリストはそのような中にいてくださる。  
*「日本キリスト教会信仰の告白」の前文 「教会は、…主の委託により、正しく御言を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、…」。
Ⅱ.「配慮」と訓練(戒規)
1.教会における配慮とは何か
 配慮とは、そのような戒規が、教会によって公的に行われること(小会決議)がないように、それに先立って、牧師・長老・委員・執事、また教会員相互が行う信仰のための関わり合いである。もっと積極的には、一人ひとりがその信仰を確立するための関わり合いである。特に一教会の牧師・長老・委員として選ばれて務めにある者は、常に群れ全体とその一人ひとりに心を配ることが求められている(使徒20:28以下、ペトロ一、5:1-2「神の羊の群れを牧しなさい」)。
  これは、第一には小会・委員会による務めの実行として、公的に行われるべきものである。
*「日本キリスト教会憲法」第10条1 小会
(3) 会員の信仰と生活に対する配慮および戒規 (配慮と戒規の順序が大切) しかし、それとは別に、牧師、長老・委員、教会員の個人的な判断と個人的な関係の中で、それらがなされることもある。これはしばしば公的な牧会・配慮を補うことがある(Ⅰテサロニケ5:14参照)。この信徒同士の牧会は〈相互牧会〉と言われる。これが大切である。(後述)
2. 聖書における「配慮」と「訓練」の例 
(1) Ⅰテサロニケ5:12-14
「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」
(2) ヘブライ12章14~15節  その要点。  
  • ①すべての教会員が、聖なる生活を追い求めるようにする。
  • ②神の恵みから除かれる者が出ないようにする。
  • ③苦い根(間違った教え)が、教会内にはびこって、教会員がそれに汚染されてしまうことがないように気をつける。
3. 配慮と訓練を行う主体は誰か
(1) 第一義的には、教会のかしらである主イエス・キリストである。教会における配慮・牧会は、 人間に対する神の御顧みの業であって、その主体は神であり、神から遣わされた御子イエス・キリストである。
「主は羊飼い」(詩23:1)、「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ10:11)、「魂の牧者であり、監督者である方」(Ⅰペトロ2:25)、「大牧者」(Ⅰペトロ5:4)
(2)教会のかしらである主から務めを委託されている者たち。神の顧みの業に参加する者たち。
  • ①牧師
  • ②小会(長老)・委員会(委員)―会議体・統治体として(チームとして)の牧会責任
  • ③教会員―兄弟関係にある者たち相互の責任
(3) 牧会的配慮の諸形態
  • A 牧師が一人ひとりの信徒に直接関わるもの
  • B 牧師と信徒、さらに信徒相互の関係における配慮
  • C 牧師と信徒の責任集団(小会・委員会等)による個々の会員への配慮  
  •   (図は省略)  

Ⅲ.「牧会」(魂への配慮)の内容
 
1. 魂とは何か
  牧会は、「会」を「牧する」と言い表されているが、ここでは特に個々人(の魂)に関わることとして 理解して、配慮との関係を探りたい。
 牧会は、<魂への配慮>(Seelsorge〔独〕, Care of soul(s)〔英〕)と言われる。その場合の「魂」とは何か。
 配慮の対象としての「魂」とは、肉体と区別された心の領域にとどまらず、神の顧みの下にある <霊>(spirit,πνευμα),<魂>(soul,ψυχη)、<からだ>(body,σωμα)よりなる人間の人格総体を指すものとして、理解すべきである。
 「どうか平和の神ご自身が、…あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り…」(Ⅰテサロニケ5:23)
 「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し…」(ヤコブ5:20)
  この人格は、旧約においては、神の似姿に造られたものであり、神の息を吹き込まれたもの(詩   編150:6「息あるものはこぞって…」)、新約においては、イエス・キリストの血による贖いの対象と された人間存在である。教会に結ばれたものはすでにキリストの贖いによって神のものとされている ものである。別の視点に立てば、キリスト者は、主なる神を賛美するために造られた姿を回復した ものであり、神の似姿から逸脱したものが、本来の姿を回復したものである。そうした本来のあるべ き状態から逸脱したキリスト者を、キリストのもとに連れ戻すための交わりが、牧会的配慮である。  
 「主を賛美するために民は創造された」(詩編102:19)。
2. 魂への配慮
(1)「魂への配慮」と言われる牧会についての定義
「牧会とは、教会の説教において一般的に、つまりすべての人々に告げられた福音を、特殊な形で、個人に伝達すること」(トゥルナイゼン)
「牧会とは、説教の務めをさらに徹底させて、個々人にまでみ言葉を届かせること」(ボンヘッファー)  →み言葉の個人的適用
以上はみ言葉の伝達ということに主眼がある。別の視点からの定義もある。
「牧会とは、個人に向けての神の語りかけに対する応答の形成を助ける働きである」
これは神の言葉への応答のあり方、すなわち神に向かう生き方を共に探ろうとすることに主眼 がある。
以上の両面から、牧会的配慮を考える必要がある。「人間的お世話」とは異なる。
(2)それぞれの立場でこの務めを果たすときの基本的姿勢
① 牧師が心すべきこと 「毎週の説教の務めをすることを求められることがなければ、牧師がする配慮は、容易に単なるケアに堕するであろう」。→牧師にとっては、説教(の務め)に専念することをおろそかにして、教会員への配慮はない。
② 信徒が心すべきこと 「礼拝に出席して、説教される言葉に毎週耳を傾けることがなければ、配慮を求める個人の願いも、容易に堕落し、悔い改めも赦しも、召命も知らない、自分が肯定されることだけを渇望する自己愛になり下がる」。→み言葉に聞く礼拝者であることが、正しい配慮を求めるための基礎である。それをおろそかにして、教会の配慮だけを求める者は、ひとりよがりになる。(『世界 説教・説教学事典』W.ウィリモン、参照)
どの立場にある者にとっても御言葉を正しく語り、正しく聞くことが、牧会の土台・基盤である。
 3.牧会的配慮が目指しているもの
 このような牧会的配慮を、組織的に、また非組織的(個人的)に行うことによって、教会員の信 仰が立て直されたり、教会がキリストの体として造り上げられていく。これは単なる世話ではなく、積極的な目的がある。即ち教会と各自の信仰を「造り上げる」「建て上げる」(オイコドメオー、口語訳「徳を高める」)という目的である。
「人を造り上げる」(Ⅰコリント、14:3)
「教会を造り上げる」(Ⅰコリント、14:4)
「だから、平和や互いの向上(「互いの徳を高めること」口語訳)に役立つことを追い求めようではありませんか」(ロマ14:19)
 さらにエフェソ6:10-20では、教会員が福音伝道の担い手として成長し、教会が戦闘の教会として強められることが目指されている。したがって配慮は、排除や選別のための論理によるのでなく、教会員の信仰の維持と確立の論理による。一人ひとりを、その人が属する群れの中でふさわしい場所を得させるための働きかけという側面をもっている。それは、キリストのからだである教会を形成するための共同の関わり合いのことである。
◆ マルティン・ブツァー『牧会論』(1538,南純訳) 
「第六章 キリストの群れに関する牧会者と教会の仕え人との主要な業務は、全般的にまた個別的に特にどうあるべきか」
 彼は次の聖句を重んじ、牧会の対象と内容を定めた。配慮も同じことである。
エゼキエル34:16 「わたしは、失われたものを尋ね求め、追われたもの(迷い出たもの)を連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」。 
  • ① 意識的・無意識的に教会から離れている者をキリストに連れ戻すこと
  • ② 救いの確信を持てず、迷い出て行った者を導き返すこと
  • ③ 罪に陥った者のうちに、キリストにある命を回復させること
  • ④ 弱さ(霊的・信仰的に、また肉体的・精神的に)を抱えている兄弟を強めること
  • ⑤ 強い信仰と確信を持った者を監督し、すべての善と公平において前進させること(謙虚さと奉仕の道を指し示す)
 この考えの中には、どんなひとりをも大切にする心が働いている。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(Ⅰコリント8:11)という事実に立って、関わりを探る(ロマ14:15)。キリストがその兄弟の背後に立っておられる。その事実の確認から、ふさわしい関わりが生まれてくる。

Ⅳ.牧会的配慮の具体的実践
1.教会の交わりにおける配慮の具体的形-牧師の手を離れて信徒に委ねられる事柄
(1)聖書を読み合う交わり
(2)祈り合う交わり(執り成しの祈り)  ヤコブ5:13-16、エフェソ6:18
(3)罪を告白し、罪の赦しを確認し合う交わり  ヤコブ5:16
(4)賛美を共に歌う交わり コロサイ3:16
(5)対話 プラス面であれ、マイナス面であれ、相手の心の中にあるものを言葉化していく作業を共にする。相手の言葉を受け止めることは、その人自身を受け止めることである。聴くことは、配慮における決定的な役割を果たす→ヨブの例(後出)
(6)家庭訪問  訪問する・訪問を受ける(招く) その意義は、各個人・家庭の内的状況・精神・信仰・生活(経済)環境を知ることができることにある。その際、訪問を受ける者の心理を的確に判断することが大切 ・拒否したい面-知られることの恐れ ・受け入れたい面-慰めと励ましを期待して
(7)手紙・メール・電話による通信・交わり  返事を強制しない  「キリストの名によってしたためられた手紙は、兄弟を慰める」
(8)共なる行動(見舞い、訪問、ボランティア活動)
  魂への配慮は、いずれの方法であっても、神の言葉(福音)の伝達や確認や共有が基本にあってなされるべきものである。それによって「兄弟に対するキリストの配慮」が明らかにされることが肝心である。
2.傾聴の姿勢を養う
  ヨブ記にある、「聴いて欲しい」というヨブの叫びに注目し、「聴く姿勢を持つ」ことの大切さを考え、自己を訓練する。
*ヨブは、苦しみの中で死を思う   
  3:3~4 「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ」
  3:11 「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか」
*三人の友人たちは、ヨブに対して、「お前が悪いのだ。悔い改めよ」と説得する。 しかし、ヨブはそれを受け付けない。そのようなときにヨブが発した叫びは、わたしたちに大きな課題を突きつけている。以下がその叫びのいくつか。
・6:26 「言葉数が議論になると思うのか。絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか」
・13:5~6 「どうか黙ってくれ。黙ることがあなたたちの知恵を示す。わたしの議論を聞き、この唇の訴えに耳を傾けてくれ」
・13:13 「黙ってくれ。わたしに話させてくれ。どんなことがふりかかってきてもよい」
・13:17 「よく聞いてくれ、わたしの言葉を。わたしの言い分に耳を傾けてくれ」 
・21:2~3 「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。我慢して、わたしに話させてくれ。わたしが話してから、嘲笑うがいい」
・31:35 「どうかわたしの言うことを聞いてください」
◆ 「交わりの中で、ひとりが他の人に負っている最大の奉仕は、<他の人の言葉 に耳を傾ける>ということである」
(ボンヘッファー) 
<傾聴>の大切さを認識し、それができるように自己訓練する。それは愛の問題かも知れない。牧会においては、牧師は聴く側に立つことによって、その務めを果たすことができる場合が多い。聴くことによって、初めて相手を知ることができる。
3.兄弟たちとの交わりで身につけたいこと
(1)守秘義務の遵守  教会における相互の信頼関係を強める(アメリカ合衆国長老教会の「政治基準」には、このことが明記されている)
(2)公平性・平等性の確保(疎外される者がでないための配慮)
(3)愚痴を言い合うのではなく、励ましあう関係作り(Ⅰテサロニケ5:14)
(4)希望を捨てない 「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ロマ5:5)
(5)兄弟関係における忍耐を養う(ヘブライ10:36、Ⅰテサロニケ5:14)

Ⅴ.その他の課題  
1. 牧師に対する牧会
①牧師同士(個人的に、また教職会において等)
②小会・委員会による牧会  
  説教、生活、健康、人間関係等に関して。  
  牧師のために祈る、牧師のために進言する。  
  パウロの訴え 「わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈って ください」(コロサイ4:4)。
2. 社会に対する牧会
① 「囲いの外にいる羊」に対して(ヨハネ10:16)
② 世に派遣された教会として、世に対する配慮の責任を負う教会。
③ 世の苦しみを受け止めることができる開かれた教会であること

函館相生教会 久野 牧
 
 2013道南地区信徒集会の報告
 

  • 日時 2013年6月18日(火)11:00~15:30
  • 会場 苫小牧教会
  • 主題 「キリスト者として、どのように生かされていくか」
  • 会費 1,000円(昼食代)

10:50-11:00 受付
11:00-12:30  開会礼拝
講演 秦 利器牧師
12:30-13:30 昼食 ・交わり
13:30-15:20 全体協議会
司会:久野 牧
15:20-15:30 休憩 
14:30-15:00 閉会祈り会
司会:田中 忠良
  • 出席者 教職者 5名 壮年 20名 婦人 55名 計 80名
  • 参加教会 函館相生教会、伊達教会、室蘭教会、遠浅教会、苫小牧教会 (5教会)
  • 参加伝道所 北桧山伝道所、森伝道所 (2伝道所)
地区別制になりまして、はじめての信徒集会が行なわれ、多くの壮年、婦人の方々の参加があり恵まれた集会でした。秦利器牧師の講演のテーマであります「キリスト者として、どのように生かされていくか」を全員が真剣に聴き入っていました。続いての全体協議会におきまして、各教会から現況と課題の報告があり、改めて今後も今まで以上に道南地区が協力できる体制を築くことの大切さを知りました。
 【道南地区信徒集会講演】
 2013. 6. 18.
主題 「キリスト者として どのように生かされていくか」
           ~伝道の実を豊かに結ぶために~
                              ヨハネによる福音書 15:1~12
 
は じ め に
 これまでの道南地区の婦人修養会もそうですが、中会の婦人会、壮年会の修養会の多くで、伝道をテーマに学んできたことが多かったと思います。しかし、良い学びができたという感想は聞かれるのですが、その成果が十分現れて来ないというのが現実のようです。現に、日本キリスト教会全体を通して、この十数年にわたって教勢は減少の一途をたどっています。確かに伝道は非常に困難な業です。何か良い方法を教えられて、その通りしたら、直ちに効果が現れてくるということはまずないでしょう。しかし、学んだからには、何か新しい決意が与えられ、どんな小さなことでも何か変化が起こってよいのではないかと思うのです。
 小さなことの積み重ねが、大きな力になるのです。今回のこの集会に、それを期待しております。

 1.教会とキリスト者
  教会とは、「神が御子の血によって御自分のものとなさった」(使徒20:28)ものです。 キリストの十字架の血によって贖いとられた神の民です。神がその救いの業を成し遂げるためにとられた方法は、私たちを教会に集めてくださることでした。「教会」(エクレシア)という言葉は「呼びだす」という意味を持っています。神によって、罪の世界から呼びだされ、集められた群れのことを言います。この世にありながら、神に属するもので、キリストをかしらとする体の関係にあります。私たちは教会に召され、その中で養われ、育てられていくのです。キリスト者は、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(1.ペトロ2:9)と呼ばれています。教会を言い表す言葉として、「キリストの体」「神のイスラエル」「羊の群れ」「キリストの花嫁」「神の民」「神の宮」「神の家族」「ぶどうの枝」等いろいろありますが、その中でも「キリストの体」は、聖書の教会観の特徴を最もよく示しています。

  「キリストの体」と言うとき、それは十字架にかけられた体であり、復活の体を意味し、キリスト者は、このキリストに結びつけられているのです。キリストの死と復活によって、新しく建てられたキリストのからだ(手で造らない別の神殿:マルコ14:58)こそ、真の礼拝の場所・新しい神殿なのです。それはまた、洗礼と聖餐に深く結びついています。「キリスト・イエスに結ばれる」「キリストと一体となって」(ローマ6:3~5)、「キ リストの血にあずかる」「キリストの体にあずかる」「一つの体」(1.コリント10:16~ 17)。

 エフェソ書3章20~21節に、「わたしたちのうちに働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに越えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アァメン」とあり、「教会により」が強調されています。キリストは、その体なる教会を通して万物を支配しておられるのです。私たちは、このような教会に召され、このキリストに仕えると共に、その業に仕えて行くのです。 私たちの教会の「信仰の告白」で、「教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わりであって、主の委託により正しく御言を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。これは聖書に基づく伝統的な教会観です。私たちは、キリストの救いのみ言葉を聞き、それによって養われ、生かされると共に、そ れを全世界に宣べ伝える使命が与えられているのです。神のために、神の栄光のために、自分をささげて生きる者たちとされているのです。

 ヨハネによる福音書15章1節以下のたとえには、私たちキリスト者のあり方が非常によ く示されています。ぶどうの木は、イスラエルの民にとって馴染み深いもので、神とイス ラエルの民との関係を示すものとしてよく用いられています。イザヤ書5章では、イスラ エルの民が神のみ心に従わないことが、良い実を結ばないぶどうの木にたとえられています。ここでも、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2節)、と言われています。先程のイザヤ書で、神がイスラエルの民を選び、慈しみ 、養い育ててくださったにもかかわらず、彼らが、自分を植え、育ててくださった神のみ心から離れてしまったことについて、こう言われています。神は、「肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を取り除き、良いぶどうを植えた。・・・・しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。・・・・さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか」。神はこのぶどう畑をつぶしてしまわれるであろうとだれもが思います。しかし、神はそれで終わりにはされませんでした。神は、新たに「まことのぶどうの木」を植えてくださったのです。神から離れて良い実を実らせることができなくなったイスラエル、切り捨てられ、焼かれる運命にあったイスラエルの民に対して、神は主イエスという新しいぶどうの木を植えられ、このまことのぶどうの木である主イエスに結びつくことによって、その枝に命が与えられ、もう一度生まれ変わることができるようにしてくださったのです。この主イエスに連なる新しい神の民が私たちなのです。教会は、主イエスと私たちが木と枝のような関係でしっかりと結び合わされたものです。この新しい神の民は、主イエスの言葉によって清くされています(3節)。主イエスの十字架による罪の赦しによってです。

 主イエスは、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(4節)と言われます。主イエスにつながっているということは、主イエスによって示された神の愛にとどまっているということです。この神の愛のうちにあって、私たちは新しい命を受けて生きることができるのです。教会こそ、その具体的な場なのです。キリストは、教会において、説教と聖礼典を通して、私たちと霊的につながってくださり、私たちを養い育ててくださるのです。ぶどうの木は実がなってこそ値打ちがあります。主イエスから離れるとき、私たちは神の御心にかなった実を実らせることはできません。ですから、主イエスにつながって、そこから真の命を求めなければならないのです。主イエスにつながっているなら、実を豊かに結ぶとことができるのです。これは神の確かな約束なのです(5節)。

2.教 会 の 形 成
 キリスト者は、「キリストの体である教会」から離れて生きることはできません。体のない人間が存在しないように、教会を離れては、キリスト者は存在しません。私たちの生きる場、働きの場はそれぞれ異なります。職場、家庭、地域、施設、場合によっては、寝たきりのベッドが生きる場の人もおります。キリスト者は、教会からそれぞれの場へ遣わされているのです。生きる場、遣わされる場は異なりますが、一つの教会に連なっているのです。私たちは、自分の意志でこの教会に加わったのではありません。キリストが選んでくださったのです。教会は、キリストにおいて起こった選びの事実に始まり、キリストの生ける霊の働きにおいて、今日もなお、形成され続けているのです。私たち一人一人の信仰の成長が、教会の形成につながっているのです。 パウロは、コリントの信徒への手紙12章12節以下で、教会におけるお互いの関わり合いについて大切な教えを述べています。私たちは、一つの体として召されているのですが、「体は一つでも、多くの部分からなっています」。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」 とパウロは言っています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、・・・・」とありますが、弱く見える者、信仰的に悩んでいる者、礼拝に集えない高齢者や長期療養者のために、教会はどのような配慮がなされているでしょうか。礼拝につながっている者が、そこで受けた賜物をどのようにして分かち合っているでしょうか。互いに祈り、励まし、安否を問い合うことがなされているでしょうか。伝道について考える前に、教会が主の前にふさわしい歩みをなしているかどうかを考えたいのです。牧師や長老による牧会と共に、群れの成長にとって、会員同士の相互牧会が大きな力となります。この場合、これが一方通行にならないように注意する必要があります。

 私たちは、神にふさわしいとは到底言えない者であるにもかかわらず、神が恵みをもって選んでくださったのです。それは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15:16)するためです。私たち一人一人が、恵みによって救われたことを心から感謝しているでしょうか。それが、礼拝に、日々の生活にあふれ出てくる、感謝と喜びに満ちたものとなっているでしょうか。教会の交わりは、人間的な親しさ、暖かさを越えたものです。神の恵みに生かされた者たちの感謝と喜び、そこから生れてくる真実な愛です。それが伝道につながっていくのです。

 私たちが、キリストとの霊的なつながりを維持し、かしらであるキリストに向かって成長するために最も大切なことは、主の日ごとの礼拝を重んじることです。神の民とは、何よりも神を礼拝する民だからです。主日礼拝において、神を讃美し、み言葉に聞き、聖礼典に与ることです。教会のすべての業は、礼拝に根拠を持ちます。礼拝を守ることによって、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望む」ことができるのです。先に選ばれた者たちが、真剣に礼拝を献げている、それだけでもう十分であると言ってもいいのではないかと私は考えます。神の言葉に対して、心から畏れ、悔い改める礼拝者の姿勢(1.コリント14:24以下)、それが伝道につながるのです。たとえ礼拝に出られない事情に陥っても、信仰生活の基礎ができている人は、信仰から離れることはないでしょう。

 私たちは、自分たちの召されていることの意味を深く考え、教会を、御言が正しく語られる場、正しく聞かれる場としてしっかり築いて行きたいものです。そうして、主の赦しの御言によって新しく造りかえられた者たちとして、まだ、「この囲いに入っていない」(ヨハネ10:16)者たちのために祈り、教会の成長のために仕えて行くのです。

 説教で語られるべき事柄は、神がキリストにおいて成就してくださった救いの出来事です。聞く者は、絶えず繰り返し、悔い改め、罪の赦しを受けるのです。私たちは、一度悔い改めたからと言って、それでもう十分であるということはないのです。私たちには、この世にある限り、完成はないのです。「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望む」姿勢こそが、伝道につながるのです。教会は、終わりの日に向かって生きる者たちの群れです。それゆえ、伝道には緊急性が伴います。私たち神の国の完成を待ち望む者たちは、希望と喜びをもってこの業に仕えて行くのです。

ぶどうの木は、その枝に特徴があります。毎年古い枝を切り払うと、次の年に新しい枝が生じ、そこに実が実るのです。ですから、手入れを怠ったら収穫は望めないのです。他の木の場合も手入れは必要ですが、ぶどうの木の場合は、いつも新しく生まれ変わるという希望があります。私たちは取るに足りない者です。自分に自信がある者などひとりもいないでしょう。しかし、神にしっかりつながり、その養いを受けているならば、しっかりと立っていくことができるのです。主イエスにつながって、そこから新しい命を受けるなら、いつも新しくされるということが約束されているのです。

 ここで、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」(2節)とあるように、この実を結ばない枝というのは、神と無関係な者のことを言っているのではないことが分かります。私たちは、神とつながっていると思っていても、気が付かないうちに、無益な、役に立たないものになってし まわないとも限らないのです。私たちは、聖書を読むことによって、また礼拝の度毎に、説教を通して、主イエスを覚え、その愛にとどまり続けるのです。実を結ばない枝は切り捨てられるとありますが、私たちの内のだれかが切り捨てられるようなことを神は決して望んでおられません。しかし、神の恵みがその人の内に結実しないということは現実にあるのです(マタイ25:14以下の「タラントンのたとえ」)。パウロは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(2.コリント6:1)と言っ ています。信徒一人一人が、神の恵み、救われた喜びを豊かに実らせることができるように、聖霊の導きを祈ることです。

 私たちの教会において、すべての権能は小会が担っています。教会形成と宣教の業における牧師と長老の責任の重さを、長老のみならず、その長老を選ぶ信徒が正しく理解していなければなりません。小会は、その会議において、かしらなるキリストの権威が表されるときにのみ、権威を持つのです。キリストにのみ教会の支配を委ね、それに服従する小会・教会を目指さなければなりません。そのためには、牧師や長老の独断を排除する必要があります。更に、牧師と長老の信頼関係とキリストにある一致が不可欠です。両者が互いに、慎みと信頼をもってそれぞれの務めに当たるのです。牧師は、御言葉を語る務めに対してあくまでも誠実でなければなりませんし、長老は、御言葉を聞くことと、教会を牧師と共に治めることにおいて誠実でなければなりません。教会における牧師や長老の指導というのは、教会の主であるキリストに正しく仕えている限りにおいてはじめて力あるものとなるのです。

 小会の持ち方についても、伝道のために、信徒一人一人が喜んで参加できるような組織作り、計画の立案がもっと重視されなければならないでしょう。今日、多くの教会が現状維持に精一杯です。教会の将来に向かって、いつも伝道の幻を持ち続けることが求められます。伝道の幻を持たない教会は成長しません。

 「あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(1.ペトロ2:1~10)。選ばれた民である私たちは、「生ける石」として用いられ、「かなめ石」である主キリストという土台にしっかりと結び合わされ、霊的な家である教会へと形成されていくのです。キリストの三職に、王、祭司、預言者があります。それと同じ務めを、教会つまり私たちキリスト者一人一人が持っているのです。ここでは特に祭司の務めについて語られています。祭司の務めは、神に喜ばれる供え物を捧げることです。まず自分自身を神に献げ、次いで、他の人々を捧げるのです。信仰は献身を伴うものです。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。

 「わたしは神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」(ローマ15:16)。

3.伝 道 について
  このように、私たちは、キリストの体の肢として、かしらなる主に仕えることが求められているのです。この世において、キリストに代わって(しかし、キリストと共に)働くのが教会の務めなのです。キリストの体なる教会においては、キリスト者はその体に連なる部分(肢)として、キリストの働きを継承し、その具体化のためにそれぞれの役割を担っていくのです。教会は、神の宣教の器として、世界に仕えるキリストの共同体なのです。福音は、すべての人に宣べ伝えられなければなりません。そのために、神は私たちをこの教会に召してくださっているのです。宣教は、教会 全体が担わねばならない務めなのです。伝道集会等特別のときに限らず、主の日ごとの礼拝において、教会に連なる一人一人がいつも伝道する姿勢を持っていることが大切です。「会員はすべて、キリストのからだなる教会の肢として、教会の務めにあずかる光栄と責任を負う」(憲法第5条5)とあると おりです。復活の主は、弟子たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を 宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と言われました。これは、すべてのキリスト者への命 令でもあるのです。パウロは、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(1.コリント 9:16)と言っています。キリスト者は、伝道へと召されているのです。教会は、人が求めて来るのを待っているのではなく、私たちの方から伝道していくのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(2.テモテ 4:2)とある通りです。伝道とは、教会のかしらであられるキリストが、教会に おいて、あるいは教会に先立って、この世においてなされる神の業に、私たちも共にあずかることです。そのためには、私たちが、教会のかしらであるキリストにしっかりつながっていることです。伝道の業は私たちの力や熱心さによってなされるのではありません。私たちの語る言葉も、必要なときに神が与えてくださるのです(マタイ10:19~20)。徹 頭徹尾、聖霊の働きによるのです。そのためには何よりも祈ることです。伝道が振るわない一番の原因は、聖霊の導きを求める私たちの祈りが足りないところにあるのではないでしょうか。福音を伝えることほど、愛する者、親しい者に対する大きな贈り物はないのです。しかし、信仰は人それぞれの問題ですから、無理に誘うと、かえって逆効果ということもあるでしょう。まずは祈ることです。神の導きを待つのです(使徒言行録8:26以下)。神が、聖霊が、私たちを用いてくださるのです。そのことをわきまえて祈っているなら、必ず道が開かれるでしょう。伝道の目的は教会の勢力拡張ではありません。神の恵みをこの地に明らかに示すことです。

 伝道において、私たちの生き方が大きく影響します。世の人々の好感と信頼が不可欠です。キリスト者といえども、決して完全な者ではありません。しかし、欠点の多い者であっても、それをどのように自覚しているかが問われるのです。神に赦されて生きているのだという思いが、おのずから、他者との関わりの中に表れてくるはずです。神の赦しのもとで生かされている、キリストの愛をもって人々と接し、キリストが私たちになして下さったように人に仕える、言葉によるよりも、むしろ、隣人に対する愛の行為によってキリストの愛を示していくことです。「善きサマリヤ人のたとえを参照)。伝道には、それぞれにそれぞれの方法があるのです。

 教会について、あるいは伝道について考える場合、私たちの教会では、説教の問題が取り上げられることが多いと思います。説教が正しくなされ、それが正しく聞かれているか、信者が十分育てられ、養われているかという問題です。牧師としては、十分力強く説教がなされていないという反省はだれにもあるでしょうが、説教に対する信徒の側の誤解もないわけではないでしょう。牧師の説教が分からない、抽象的で具体性に欠けている、自分たちの実生活とどこでどう結びつくのかどうもピンと来ない、そのような意見がよく聞かれます。しかし、そのような場合、説教に一体何を求めているのか、よく考えてみてください。福音の出来事は、私たちの存在の根本をひっくり返すような出来事なのです。ですから、説教に対して自分たちの要求を優先させるような姿勢は根本的に間違っているのです。

 使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(1.コリント1:18、21)と言っています。神が、敢えて「宣教という愚かな手段」をお用いになられたのは、神が私たちに与えてくださった救いそのものに関係しています。イエ ス・キリストの受肉、受難、復活によって与えられた救いの福音が今も繰り返し告知され、信じる者を起こし、神の民を形成していくのです。この救いの出来事を告知するのが説教なのです。それがいかに愚かに見えようとも、神が自らへりくだり(フィリピ2:6以下)、救いを成就してくださった事実を宣べ伝えるのです。ですから、説教は、キリスト教的な人生哲学や処世術、道徳訓ではないということをまずはっきりさせておく必要があるのです。

  説教において、神ご自身がそこに現臨され、私たちに出会い、私たちを救いへと招いてくださるのです。神ご自身が私たちに働きかけ、私たちに罪の自覚、悔い改め、罪の赦し、新生を与えてくださるのです。私たちは、説教において、救いの出来事を繰り返し想起するのです。教会における説教の主体は神ご自身なのです。神は、それによって教会を建ててくださるのです。私たちは、主の日毎に教会に集められ、共に礼拝し、御言葉を聞き、聖礼典に与り、交わりを新たにされ、宣教へと送り出されていくのです。説教によって信徒が養われ、訓練され、教会が形成されるというのはそういうことを言うのです。私たちは、説教をそのように理解するのです。教会には、そのような業が主から託されているのです。私たちが説教をどう聞くかということも、そこから、おのずから定まってくるでしょう。伝道もこの線上に位置づけられるのです。

  主イエスにつながっているということは、神が主イエスの十字架によって私たちの罪を赦してくださったことを私たちが信じて、その主イエスの愛を心から感謝し、少しでも神の御心に従って生きようとすることです。私たちは、神に喜ばれる確かな道を歩むように選ばれている者たちです。主イエスは弟子たちを、更には私たちを選び、神との交わりの内に導き入れてくださいました。主イエスの愛にしっかりとつながっているなら、自然と良い実を結ぶことができるのです。良い実を結ぶということは、私たちの信仰の歩み、生き方そのものに関わっています。ですから、私たちに託されている業を伝道のみに限って考えてはなりません。私たちが、キリスト者として堅実に生きようとするとき、それが伝道の働きになっていくのです。パウロが、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22~23)と言っています。私たちの内に、これらの実が豊かにされることを神は願っておられるのです。これこそ、神の恵みの表れ、神の喜ばれる実り、救いそのものと言って良いでしょう。

  私たちにとって最も大切なものは、神を知る知識です。私たちは、いろいろな方から勇気や希望、生きる力と喜びを与えられます。しかし、本当の生きる力と喜び、希望は、神からしか与えられません。神を信じ、神に感謝しつつ生きる、主イエスにしっかり結びついて生きるなら、私たちは豊かに成長し、当然豊かな実を結ぶことができるのです。私たちは、神の愛と憐れみなしには生きられないのです。単なる人間的な愛情や励ましではなく、絶対に変わることのない神の愛によって、私たちの命は初めて本当の豊かさを与えられ、真の喜びに満ちたものとなっていくのです。それは、ただ私たちの喜びというだけではなく、神の栄光のため、また、主イエスの喜びのためでもあるのです。「あなたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(8節)とある通りです。私たち一人一人の信仰の歩みが神の栄光と喜びにつながっているのです。何と光栄なことでしょう。私たちに約束されているこの喜びに与るために、自分自身を神にささげ、神に仕える決心をしたいものです。信仰には必ず献身が伴うのです。そのような信仰を神は用いてくださり、伝道の働きへ導いてくださるのです。一人の受洗者が与えられることは、勿論教会にとって大きな喜びですが、それよりも「大きな喜びが天にある」のです。何よりも神が喜んでくださるのです。良い実を豊かに実らせるために、神の恵みに堅くとどまり、その導きを受けつつ歩んで行きたいものです。

 たとえ少数であれ、この国にキリスト者が立てられていることは大きな希望なのです。神を仰ぎ見て生きている人の存在は光り輝くのです。一人一人のキリスト者が、本当に神を仰ぎ見て生きて いる、それが大きな証しになるのです。それぞれが、今置かれている場で、神を仰ぎつつ真剣に生きることです。

  私たちの信仰が熟して、その力で伝道するというのは、人間の高慢の現れでしょう。神の約束を信じて、聖霊の働きを求めつつ伝道する、それによって私たちの信仰も形成されるのです。信仰の成長も、私たちの努力によるのではありません。私の内に聖霊が働くとき、神の御言葉をしっかりと受とめる信仰が形成されますし、私たちを伝道に導くのも聖霊の働きなのです。

4.訓 練
 教会がキリストの体として成長するためには、召された者の訓練が大切です。教会は、信仰の訓練の場です。訓練と言うと「戒規」が考えられますが、ここでは、もう少し一般的な訓練について考えましょう。

 「すべての人がキリストに結ばれて完全なものとなるように、知恵を尽くして、すべての人を諭し、教えています」(コロサイ1:24~29)。「キリストがあなたがたの内に形づ くられる」(ガラテヤ4:19)。教会が訓練を行う権威の根拠はキリストの権威にあります。キリストはこの権威を弟子たちに委ねられました。訓練は、教理上の訓練はもちろん、教会生活の訓練が大切です。礼拝生活のこと、特に聖餐式を守るべきこと、教会における務め、伝道、奉仕、献金のこと、教会の交わり、教会における礼儀、家庭生活、社会におけるキリスト者の生活等につき、具体的な訓練が必要でしょう。「信仰の告白」「信仰問答」「教会員の生活」などを用いて、個人的に、またさまざまの集会を通してなすことも必要でしょう。しかし、いかに完備された規律や心得をつくり、教えたところで、それで訓練になるわけではありません。信仰のことは究極のところは聖霊の働きにより内からなされるものだからです。

  この場合、教会において、具体的な模範が示されることが有効です。教会の訓練において、先に選ばれている信者がよき模範を示すこと、すなわち教会によく訓練された長老、古い会員がいること、よい訓練の伝統がつくられていることが最も有効な訓練になるのです。逆のケースがないことを祈ります。

  教会の訓練の究極の権限は教会のかしらなる主キリストにありますが、現実には、牧師・長老、その組織する小会に委ねられています。長老は牧師と共に治会(教会を治める)の権威を委ねられています。教会員はこのことを知って、この職を尊ばなければなりません。訓練において大切なことは権威の所在がどこにあるかということです。長老制度においては、牧師と長老とは同格であると言われますが、委ねられた務めにおいては異なります。牧師は、御言によって教会を管理指導する権威を委ねられたものであり、この牧師の位置が正しく認められなければ、教会の訓練に混乱を生ずるでしょう。

 訓練を受けることも授けることも非常に難しいのです。訓練する者は、キリストの権威を自己の権威にすりかえる危険にさらされますし、訓練を受ける者は、御言の権威を人間の権威と混同し、自尊心を傷つけられたと言っては、牧師に反発する過ちに陥るのです。御言によってたえず裁かれ、十字架の贖いによる和解の福音のもとで、訓練を受くるに足るものとなし給えと祈りつつ、謙虚と服従をもって訓練を受けないならば、教会の訓練は成り立ちません。究極において、信者の訓練を行うものは、御言と私たちの内に働く聖霊であるということを忘れてはなりません。訓練はどうかすると律法主義に陥ります。訓練は、神に選ばれた者、十字架の贖いにより召され、神の子とされた者に対する牧会的な指導です。それゆえにこれはどこまでもキリストの愛の精神をもって行われ、主に対する服従と謙虚において受けられねばなりません。「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」(コロサイ1:28)とある通り、真実のキリスト者をつくることがその目的で す。訓練なくして真実のキリストの体なる教会は建設され得ません。教会はよき訓練においてのみ、強力なキリストの教会、戦闘の教会となるのです。


終わりの日を目指して
  この世が闇に覆われているように思えるとき、私たち自身の弱さ、惨めさに絶望するような状況を思うとき、将来に不安を感じることが多々あります。しかし、かつてキリストがすべての人の痛みと重荷を負ってくださった、そのキリストが今なお教会の主として、この世にいましたもうのです。教会が存在する、そこにキリストがいましたもうのです。ここに私たちの希望の根拠があるのです。キリストは、今もこの教会に多くの者を招いてくださいます。私たちは、教会においてキリストと共にあるのです。キリストは救いの完成に向かって、教会を通して、その業をなし続けておられるのです。伝道は、人間の知恵を越えた神の働きを信じて初めてできることです。神が過去においてなしてくださった救いの業を信じ、将来、神が必ず救いを完成してくださるという約束を信じるのです。そこから聖霊の導きが与えられるのです。